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◇◇SEMINAIRE OUVERT PERMANENT
◆公開セミネール『心的構造論』より
◆「セミネール断章」
◆講義 藤田博史
◇◇編集 榊山裕子
Le 46ème SÉMINAIRE
samedi 9 décembre 2006
第46回第46講「精神病の構造的治癒理論とその治療技法(34)」より
2006年12月9日(土)
日仏会館(東京・恵比寿)-------------------------------------------------
(『セミネール断章』は、公開セミネールのご紹介として、講義より抜粋して掲載しています)
==============================2006年12月9日公開セミネールの概要
✐ 世界の切り分け方 (13:30〜14:30)
フランスと日本の住所表記 → 道路中心と建物中心 → さまざまな世界の切り分け方 →言語論的な世界の切り分け方と地図の世界の切り分け方 → 差異と実質 → シニフィアンとサンブラン → シニフィアンの連鎖と日本的な文化における「居心地の悪さ」→フロイト「文化の居心地の悪さ」→ 母と子、子にとっての居心地の悪さとは → フロイト「第2の局所論」と超自我
✐ 精神分析の数学化(マテマティザシオン)〜幻想(ファンタスム)の式/ボロメオの輪/補填〜について (14:30〜16:30)
精神分析的な見方とは? → ラカンの幻想(ファンタスム)の式 $ ◇ a → 4つの言説(ディスクール)(主人、ヒステリー、大学人、精神分析家の言説(ディスクール))→ 精神分析の数学化(マテマティザシオン)→ トポロジーの数学化(マテマティザシオン) → (休憩) → ボロメオの輪 → 象徴界・想像界・現実界 → 意味・ファルス享楽・他者の享楽 → 三つ葉の結び目 → 「制止・症状・不安」→ 仮説としての数学化(マテマティザシオン) → 補填 → 補綴 → 相対化される「真理」
==============================幻想(ファンタスム)の式 $ ◇ a (註1)
「精神分析的な見方って何ですか?」
というような質問をされた時に、わたしの心の中にあるのは「幻想の式」です。人間のファンタスムの構造つまり「幻想の式」が頭のなかにあれば色々な人間の営みの基本構造が見
えてきます。
チャート式ラカン派精神分析(笑)。
$ ◇
a ポワンソン◇の中身を書くと、
$ーS
1ーS
2ー
aその中身を言い換えると、
$ーΦーAー
aとなります。これらの式は言ってみれば
精神分析における親鍵 passe-partout
のようなものです。
註1) $ ◇ a というよく知られた式があります。
フランス語でエスバレ・ポワンソン・プティタ、エスは主体 (sujet)、ただし斜線をひかれている ($ sujet barré)という記号です。われわれが知りたくても知りえないところに葬り去られた主体が、何かを求めているという記号です。プティタ(petit a、英語ではsmall a)は、フランス語の amour、愛です。斜線を引かれてこの世から抹消された主体が愛を求めているという構図です。これが言葉を話す人間の全ての営みに共通するベクトルです。これを「ファンタスム fantasme」、日本語では「幻想」と言います。
◇ はラカンが精神分析に導入したポワンソン(錐印)(◇, poinçon)という記号ですが、これはいってみれば永遠に邂逅することの無い二項の運命を表わす印です。
参考図書(『人形愛の精神分析』青土社刊)4つの言説(ディスクール) quatre discours 「幻想の式」からラカンのいう「四つの言説」をつくり出すことが出来ます。「四つの言説」とは、ヒステリー、分析家、大学人そして主人の言説、です。「幻想の式」を知っていれば四角形を回転させて、四つの言説の基本構造を得ることが出来ます。

精神分析行為にとって重要なのはいうまでもなく分析家の言説です。対象
a objet petit
a として話しかけること。この言説はその性質上、時に、傲慢、非情、無関心、ささいなこと、のように耳に響いてきます。これは精神分析的なタクティクス、より正確にいうなら一つの賭け pari です。皆さんの自我に話しかけているのではなく、皆さんの無意識に対して、皆さんについて、話している。ヒステリーの言説は非常に興味深い。精神分析の生みの親はこのヒステリーのディスクールだといっても過言ではありません。無意識の主体が一番目のシニフィアン(S
1)を望んでいる。一番目のシニフィアンとは取りも直さずファルス(勃起した男根)のことです。無意識のうちにファルスの代理物を欲望している。
大学人の言説、大学という知識の府のなかに生息しているうちに世間に出ることが出来なくなり、知の堂々巡りのなかでしか呼吸しなくなってしまった金魚鉢の中のような言説。知のための知、という恐るべき正当性(もしくは居直り)がここにあります。真理の上にゴミの山のように知が堆積してしまって真理はそこへ埋もれたまま、自分でもいったい何を溜めているのかわからなくなる、いわば知でできたゴミ御殿です (笑)。
聴講者「でもわたしの尊敬する先生は、これは知を愛しているということだ、とよく言っていました」
そうです。それがフィロソフィ(「愛」を意味する philo- +「智」sophia )ですから。「知を愛する」というのはある意味で主人の言説です。その先生は主人なのでしょう。
その分野においては素晴らしい人、その先生は何を目指しているのかというと知の構築を目指している。S
2を目指しているということです。
$が無意識の主体、S
1がファルス(Φ)、S
2が知 savoir 、
a が究極の対象。それにしてもこの究極の対象とはいったい何でしょうか?たとえば「愛
amour」であったり、「死」であったり、「取るに足らないもの」であったりします。わたしたちの幻想はこの究極の対象の、いわば引力によってベクトル化しているのです。
聴講者「主人の言説というのが今ひとつよくわからないのですが・・・」
主人の言説は、「命令形 impératif」です。主人の言説とはまさに弟子たちを前にしてその効力を発することが出来るような、命令法によって物事がすすみ、知を支配していくような言説です。
たとえば「お前駄目じゃないか、そんなことやってたら。刀はこうやって打つんだよ」と弟子に伝授する刀鍛冶。
だから往々にして分析家の言説と主人の言説が混同されてしまいます。ラカンが大教室で語っている時、こう(S
1→S
2)だと思い込んでしまうことがある。講義を聴いている人はラカンに命令されている感じになってしまう。S
1がS
2に働きかける。そうするとS
2が今度は動因 agent となるというような。動因 agent、対象 objet・・・対象という言い方はしないかもしれませんが・・・産物 produit、抑圧されたもの refoulé、何かが何かに働きかけて、その働きかけたものの場所に何かが生じる。その何かが生じることによって働きかけたものの無意識のなかに何かが抑圧されるという一連の流れが生じる。その抑圧された構造をもとにしてまた何かが何かに働きかける。
数学化(マテマティザシオン) mathématisation について 自分が何でなければならないか。ヒステリー症者そのものは無意識の主体です。ふと我にかえると何をしていたか覚えていないような主体。分析家の場合は自分が愛であり死でなければならない。大学人は自分が知識の塊でなければならない。主人は自分がファルスでなければならない。つまり命令の発信元でなければならない。
人間の幻想の式というのは非常によく出来ていると思う。数学としての明快さがそこへ導入されている。これは閉じこもってフロイトの著作を何度も何度も精読したラカンだからこそ生み出すことの出来たひとつの産物です。まさに精神分析の数学化(マテマティザシオン)です。そして数学的な式を構築するための要素をマテーム mathème と呼ぶ。この用語はラカンによって言語学の音素 フォネーム phonème から類推された造語です。一応、我々精神分析家の間では統一して「数学素」と呼ぶようにはしていますが、「学」という字がちょっといただけないという見方もあるので、そのまま「マテーム」と翻訳したりしています。
マテマティザシオンはこのような幻想の式に留まらず、一般実用科学の流れと同様、精神分析理論の様々な考え方をシンプルに表現してくれます。ご存知のように晩年のラカンは空間的な位相の問題つまりトポロジー的な考え方を人間の幻想の構造の中に持ち込みました。そしてさらに扱いにくかった性の欲動、死の欲動、ファルス的享楽、他者の享楽、精神病、躁鬱病、パラノイアなどを位相関係の中に生じる病理として表現しました。このトポロジーのお話を休憩を挟んでおこないましょう。